東洋のストラディバリ 陳昌鉉
木曽福島とのかかわり
韓国最高国民勲章を授章
高校教科書に掲載される
木曽鈴木バイオリン
エッセイ「ストラディバリと私」
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木曽鈴木バイオリン

木曽福島とバイオリン
 
戦前の長野県は蚕糸業が盛んな土地柄で、木曽福島にも福島製糸工場や国用製糸工場がありました。昭和初期に起きた世界恐慌の影響を受けて製糸工場は休業状態でしたが、太平洋戦争が激しくなると軍需産業が地方へ疎開することになり、遊休施設であった製糸工場を電線工場、グライダー工場などに利用することとなりました。グライダー工場では、飛行機の爆音識別のための擬音を作り出す楽器に使うということでバイオリンの製作も行なわれていましたが、本格的な「バイオリンのまち」となるのは、終戦を迎えてになります。
昭和19年の春、東京の空襲により、鈴木バイオリン産業株式会社(資本金500万円、社長鈴木喜久雄氏、父は名古屋市の鈴木バイオリン製造株式会社創設者の政吉氏)が、木曽山林学校の木工室に疎開し、楽器の製作の代わりにグライダーの部品をつくっていたのがその始まりです。社長の鈴木喜久雄は、松本市でバイオリンの才能教育に従事していた鈴木鎮一氏(鈴木メソッドの創設者)の弟で、はじめは兄弟ともに福島に疎開していましたが、兄の鎮一は松本へ移ったため弟が社長となりました。終戦を迎えた昭和20年、鈴木は山林学校から当町八沢の小松製材所の遊休施設を借り受けて下駄の製造を行なっていましたが、22年に工場を当町中島の国用製糸工場に移し、23年から本来の楽器工場に復帰して、社名も鈴木バイオリン楽器と商号変更し、最初にウクレレ、続いてバイオリンの製作を開始しました。この背景には、木曽福島が電力の供給が容易であること、主要材料であるトウヒ、カエデ、ヒノキ、ブナなど現地で容易に入手できること、それに加えて空気が清澄で乾燥しているなどバイオリンづくりには恵まれた環境にあったことから、24年からはバイオリンを主軸にギターも併合して生産するようになりました。
その製品の販路も鈴木バイオリンの過去の実績がものをいって、国内はもとより海外への輸出も盛んに行なわれるようになりました。ところが、軌道にのるかと思われた矢先の25年12月、輸出品の売上代焦付きによるつまずきから会社が倒産してしまうという不幸な事態に陥ってしまいました。
しかし、これを惜しんだ有志によりその再建がはかられ、26年3月に有限会社鈴木バイオリン社として新発足しました。多くの借財を抱えていた工場の経営は容易ではなかったわけですが、関係者の努力によって見事再建に成功し、昭和34年には、バイオリン月産800台、ギター300台、マンドリン200台、コントラバス20台、セロ30台、ビオラ10台、計1,360台を生産、主体のバイオリンは種類だけでも53種類を生産し、全国生産額の約4割を占める日本の大メーカーのひとつに数えられるまでに飛躍しました。
翌35年、第2工場を新設し、それまで56名であった社員が106名の増員され、製品も国内向けに40%、国外へ60%を出荷し、バイオリンの生産高では名古屋の業者と二分する名実共に日本のバイオリンメーカーに成長したわけです。その後鈴木バイオリン工場は、木曽谷の木材関連工業のなかで最大の従業員数(昭和52年、200人)を
有するまでに成長しています。こうして木曽福島は、日本の音楽産業史に残る町になったわけです。
残念ながら昭和60年に木曽の鈴木バイオリンは倒産しましたが、現在でも有志の皆さんがバイオリンの製作技術学校を開設され指導にあたっています。
こうした背景があって、世界で5人しかいないアメリカ無鑑査バイオリンメーカーである陳昌鉉氏は、木曽福島でバイオリンづくりの基礎を独学で学ばれました。
また鈴木喜久雄氏の長男で当町出身の鈴木良雄氏は、現在世界的ジャズベーシストとして活躍されています。
こうした音楽の造詣が深い当町では、クラシック音楽の祭典として木曽音楽祭が昭和58年に始まり、多くのファンの支えにより平成16年に30年を迎えました。現在でも日本で最も古いクラシック室内楽の音楽祭として、また常に最高級の音楽を提供する音楽祭として、多くのファンを魅了しています。楽器づくりの時代はされど、これからも木曽福島は「音楽の街」として歩んでいきます。

工場内の様子

昭和30年代の木曽福島中島地区