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木曽音楽祭とはプロローグ 1973年、木曽フィルハーモニック協会が発足する。これは、地元のクラッシック愛好家達が、ナマの音楽を聴く機会に恵まれない木曽に「自分たちで、演奏家をよんで、演奏してもらおう」と呼かけ発足したもので、10月20日の協会発足記念演奏会以降、毎月のように著名な演奏家を招いて演奏会を開いていた。当時長野県内でも珍しかったこうした定期的な演奏会が開催できたのは、ひとりのキーパーソンの存在がある。若き楽器製作者、飯田裕氏(当時24歳)である。 マールボロを目指して 1979年、世界の音楽的事件ともいえるプリムローズカルテットの再演がこの音楽祭で果たされる。このカルテットはトスカニーニの要請によって編成され、戦前最高のカルテットとして名声を博していたが、先の大戦で演奏活動が途絶え、このとき実に34年ぶりの再結成であった。このときから、一時公開レッスンが行われなくなるが、あらたに組織した木曽福島国際音楽祭組織委員会は、各界の著名人を役員に迎え全国的な組織での開催となる。 若手を加えて拡大へ第6回では、フルニエ。7回では、ゴリツキー3兄弟と、華やかになっていく音楽祭ではあったが、出演料・渡航費等の経費は入場券の売上げでまかなえるものでは到底なく厳しい財政状態であった。これをなんとか改善しようと始めたのが、「木曽の糀味噌」販売による資金集めである。前出の唐沢さんの店で天然熟成して造られた「本物の味噌」を買ってもらいその収益で音楽祭を支えてもらおうというもの。"大きなスポンサーひとりを得るより、小さなひとりひとりが支える音楽祭の方がずっと素敵"と考えたこの運動に全国から支援が寄せられた。 1982年5月、木曽の地を第二の故郷と愛してくれたプリムローズ氏の訃報がもたらされる。婦人に見守られ、木曽で出会った最後の愛弟子、高平純氏の弾くヒンデミットのテープを聞きながらの永眠であったという。この年の音楽祭の第一夜は、亡きプリムローズ氏を追悼したプログラムが組まれた。 この年から、企画構成に金昌国氏、久保陽子さんらが参画し、演奏家と地元ボランティアが一緒につくるという、この音楽祭独特の雰囲気が強まった。また新しい試みとして、第一線で活躍中のプロと若手との交流を目的に、その前年の毎日NHK音楽コンクール優勝者やオーディションで選考した若手を加え、出演者は一気に40名にもなった。この年からプログラムにベートーヴェンの交響曲を加え、1番から順に演奏していき「9年目には"第九"を地元のコーラスで」との企画もあった。 木曽音楽祭へ1983年に第9回、1984年の第10回では、公開講座も復活し(講師にハンス・ペーター・シュミッツ氏)、オーディション参加者66名(内11名合格)、出演者も50名と過去最大規模の音楽祭となるが、大きくなった音楽祭は、音楽愛好家で作ったボランティア組織では、支え切れなくなってしまった。演奏家の好意で破格の安さの出演料、宿舎もホテル等ではなく、理解ある方に山荘を提供して頂いたり、ボランティアの家へのホームスティでまかない、食事もボランティアで主婦らがお世話する、などできる限り節約しての開催であったが、毎回赤字は出た。それを、その都度寄付を集め、味噌を売った収益をあて、それでも足りない分を唐沢さんらが補填した。「音楽祭の質だけは落したくない」との熱意も限界に達した。以後の存続も危ぶまれた音楽祭であったが、これまで続けてきた音楽の火を絶やすまいと、旧木曽福島町に全面的な協力を要請し、要請に応じた町がそれ以後、地域文化の向上や過疎対策の一環として、事業計画・運営に本格的にかかわることとなる。名称も、「木曽福島国際音楽祭」から、「木曽音楽祭」に変更し規模こそ縮小したが、音楽祭は継続された。飛躍1986年新たに「木曽音楽祭実行委員会」を発足、事務局を旧木曽福島町教育委員会に置き、町・地元住民・演奏家という現在までの体制を確立し、12月には「木曽音楽祭東京後援会」も発足。外部からの協力も得て、手さぐりではあったが年々着実に入場者数も増え、財政的にも適正化が計られた。施設についても、当初町の体育館を利用していたが、第16回からは、700人程度収容できるホール(木曽文化公園文化ホール)が木曽郡の施設として整備され、現在はそこで開催している。このような経過を経て、1994年、第20回の音楽祭が開催された。出演者総勢38名、4日間で5つのコンサート、合計20曲を演奏し、2,445人の入場を得、盛況のうちに幕を閉じた。この山深い地に蒔かれた音楽祭の小さな種は、30年を経て現在木曽の地にしっかり根づいてる。ここまでの経過は決して平坦なものではなかったが、音楽を木曽を愛する人々に支えられて成熟し、現在音楽祭は、クラッシクの真髄である室内楽を中心としたプログラムが組まれ、曲目は通例のコンサートでは登場まれな曲が演奏家の深究心によって厳選され、高いレベルで結実している。また、一週間の木曽での合宿といったおもむきの滞在は、演奏家同志の交流の場、研鑚の場を提供するものとして、参加する演奏家に好評価されている。これまで触れてきたように、この音楽祭の運営はボランティアによって支えられてきた。その形は変わりつつあるものの、その精神は今でも受け継がれ、息づいている。そのことが、手作りの音楽祭として独特の雰囲気を醸し、演奏家の、そして聴衆の再訪を約束させている。今年も夏の終わりを告げる風物詩として、マエストロの音が木曽谷に響く。
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